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 日本武尊の生誕地から征西、四国の伝承、東征への道、東征からの帰路、白鳥となるまでをブロックごとにまとめています。また、四道将軍、草薙剣など本筋から派生した伝承を資料としてまとめました。それぞれのバナーをクリックしてください。また、日本武尊の行程がつながるようページ最後に次へのリンクが設定してあります。
 

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日本各地の銅像

 日本武尊の銅像は日本各地にあります。九州から東北地方まで天皇に背く者たちを武力でおさえてきました。大和朝廷が支配を拡大していく過程で大活躍した人物です。
 
 

日本武尊とは

 
 日本武尊は小碓尊や倭男具那などと呼ばれていました。九州の熊襲を征伐する征西の時に「やまとたける」と呼ばれるようになりました。『古事記』『日本書紀』とも読み方は同じですが、表記が異なっています。

日本武尊の父母兄弟

 日本武尊の父は第12代景行天皇です。母は播磨稲日大郎姫で稚武彦命の娘です。景行天皇の第一皇子は大碓皇子で小碓尊とは双子です。異母兄弟は80人いたと言われています。
 

九州の熊襲を討つ

 景行天皇自ら九州に遠征し熊襲を征伐しました。その征西から12年後のことです。熊襲がまた騒ぎはじめました。そのため、熊襲を討つのが急務となりました。天皇は16歳の小碓尊に熊襲を討つよう命じました。
 
 

四国の怪魚退治

 瀬戸内海の怪魚退治に日本武尊が派遣されました。従者たちは怪魚の毒気に当てられ苦しみましたが、八十場の霊泉水を飲ませたところ正気に戻りました。日本武尊によって怪魚は退治されました。
 

尾張で全軍集合

 
 天皇は群臣を派遣して国中を視察させました。そんな折、東国から蝦夷が反乱を起こしているとの情報が入りました。そこで、再び日本武尊が東国平定のため派遣されることとなりました。
 
 

陸路三河路を経由

 愛知県から静岡県西部に至る地域には日本武尊の滞在地、通過地、戦地とする伝承があります。矢づくり、矢じり作りなど東征の戦いに備えたとされる伝承から陸路で駿河に向かったと思われます。
 

駿河で野火の難

 
 日本武尊が駿河に到着すると土地の首長が尊を狩りに誘いました。尊が野に入って行くとすぐに炎に囲まれてしまいました。尊はだまされてしまったのです。このとき妃の弟橘媛も一緒でした。
 

走水の悲劇

 日本武尊は相模に到り、海を挟んだ対岸の上総に渡ろうとして「こんな小さな海一つ飛びだ」と言って出航しました。すると暴風が吹き荒れ船は先に進みません。海神が怒ってしまったのです。
 

房総半島で最大の戦い

 
 日本武尊は弟橘姫の入水により突然の暴風から難を逃れ上総に上陸しました。静かな海は弟橘姫のことを思い出させ悲しみが増すばかりでした。しかし、ここには蝦夷最強の敵が待っていたのです。
 
 

武蔵国を通過

 武蔵の国、東京都内には日本武尊が東征の際に立ち寄ったとする伝承が多くあります。東征の往復で立ち寄ったと伝える神社もあります。なぜ立ち寄ったかも含め日本武尊の行程を考えてみました。 
 

最北陸奥の国

 日本武尊は大きな鏡を掛けた船で上総から海路で葦浦を回り玉浦の横を通って蝦夷の境に到りました。海路を北上し、竹水門から上陸しました。記紀にはない足跡は神社創建の由緒として伝えられています。

常陸国風土記に曰く

 『常陸国風土記』に地名についての由来が書かれています。蝦夷から常陸を通ったとき、清く澄んだ水が湧き出す泉で手を洗ったとか衣の袖が垂れて水にひたったという話が伝えられています。

武蔵国再通過

 日本武尊は新治・筑波を過ぎてから再び武蔵の国に入ったと思われます。東北地方の真ん中を南下し千葉県の北西部を通過した日本武尊の姿は東京都内の神社の伝承として刻まれています。。 

甲斐国の戦い

 日本武尊は甲斐国に入り酒折宮に滞在しました。灯をともして食事をし「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」と歌で尋ねました。従者たちは答えられませんでしたが、灯り番が尊の歌に続けて詠みました。

信濃国で彷徨う

 上野国を抜けて信濃国との境に至った日本武尊は碓日坂で東国を偲びました。走水で亡くなった弟橘姫を思い「吾嬬はや」と嘆きました。関東を吾嬬国(東国)と呼ぶようになったと言われています。
 

尾張国に戻る

 日本武尊は美濃から尾張国に入りました。峠で建稲種命が亡くなったことを知り、悲しみをかかえたまま宮簀媛の館に入り、ここにしばらく滞在しました。久しぶりの平穏な時を媛とともに過ごしました。
 

伊吹山の神との戦い

 伊吹山を拠点としていた一族が大和朝廷に反抗していると知らせが届き、その征伐に出かけました。伊吹山の賊なら難なく退治できるであろうと思ったのか神剣を館に留め置いたまま出かけました。
 

白鳥となって飛び立つ

 伊吹山の神は雹を降らせて日本武尊を攻撃しました。峰は霧がかかり谷は暗くなりさまよってしまいました。居醒泉で休息しましたが病となった体は回復せず、能褒野で亡くなってしまいました。

資料 四道将軍

 大和政権は北陸、東海、西道、丹波を平定するために4人の将軍を各地に派遣しました。孝元天皇の皇子大彦命、その子武渟川別命、孝霊天皇の皇子吉備津彦命、開化天皇の皇子丹波道主命です。

資料 吉備氏

 吉備武彦は孝霊天皇の子孫であり、父の稚武彦命はかつて叔父でもある四道将軍の一人大吉備津彦命とともに山陽道を平らげました。この血を受け継ぎ、東征の副将軍として大活躍しました。

 

資料 草薙の剣

 日本武尊が東征の時、倭姫命は神剣を授けました。かつて素戔嗚尊が八岐大蛇を退治したとき尾から出た天叢雲剣です。駿河で野火の難から助けられ、神剣は「草薙剣」と呼ばれるようになりました。
 

資料 伊勢神宮(倭姫命御巡幸)

 天照大神は地の神とともに天皇の宮殿に同居していました。神と同居するのは畏れ多いと思った天皇は天照大御神の御霊代を祀るのにふさわしい場所を探すよう豊鍬入姫命と倭姫命に命じたのです。
 

資料 熱田神宮

 日本武尊が亡くなってから、宮簀媛の館があった火上山(現在は境外摂社の名古屋市緑区大高の氷上姉子神社)で祀られていた草薙剣は宮簀媛が中心となって話し合い、熱田に社を建てて祀ることとしました。

 

資料 建稲種命

 建稲種命は日本武尊の副将軍として東征に出かけました。尾張国から山間部を坂東に進んで房総半島北部で日本武尊らと合流しました。陸奥で賊らと戦った後、甲斐の酒折宮まで同行しました。

資料 古事記・日本書紀

 記紀の編纂が始まったのは飛鳥時代で天武天皇の時代です。完成したのは奈良時代です。『帝紀』と『旧辞』に代わり新しく天皇が国家支配することの正当性を記しておく書物を編纂する必要がありました。

 

参考文献等

 

 
編集履歴
 
・2019.06.12 細かな加筆修正を行っています。
 
 
・2019.06.02 ブロックごとにアップロードしています
 
 
・2019.05.01 公開準備中
 
 
 
 
 
 
 

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