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福岡県の徐福伝説

九州北部の筑紫平野は大変広大で,「史記」に見られる「平原と広沢」にふさわしいところです。「徐福は平原広沢にとどまって王となり,もどってはこなかった」と記されています。また,筑紫平野は日本で最初に稲作が行われたところと言われています。この平野の南部にあり,筑後川を軸にすると,佐賀市や吉野ヶ里遺跡とは反対に位置しているのが福岡県八女市です。ここにも徐福伝説があります。

童男山古墳童男山古墳 徐福像

「童男山ふすべ」として伝えられる徐福

「ふれあいの家南筑後」「童男山ふすべ」福岡県八女市にある古墳で「童男山ふすべ」という行事が毎年1月に行われています。「ふすべ」とはたきぎを燃やして「いぶす」という意味です。この行事は徐福が日本にやってきたことと深い関係があります。 写真の徐福像は童男山古墳(どうなんざんこふん)近くの福岡県立「ふれあいの家南筑後」福岡県八女市大字山内の前にあります。2003年徐福像建立委員会によって建てられました。

童男山古墳童男山古墳童男童女とともに中国を旅立ち船出した徐福らは海上で嵐にあってしまいます。日本まであと少しのところで船が遭難し,徐福らは海に投げ出されてしまいます。

徐福像 童男童女像徐福像 童男童女像浜に打ち上げられた異国の人徐福を助けたのは八女の住民達でした。枯れ木や枯れ葉を集めて燃やし,徐福の体を温めました。

徐福像 童男童女像徐福像 童男童女像浜の人達に助けられた徐福でしたが,手厚い看護の甲斐もなく息を引き取ってしまいました。そのため,徐福は村人たちによって童男山に葬られたと伝えられています。

徐福像徐福像今でも毎年1月20日に徐福の霊を慰めるため「童男山ふすべ」という行事を川崎小学校の児童が中心となって行っているそうです。徐福の安らかな眠りを念じて煙が絶えないように火をたき続けてきたのがその行事の由来です。

童男山古墳童男山古墳童男山古墳(どうなんざんこふん)
 福岡県八女市にある古墳群です。この一帯は6世紀後半頃に造られた童男山古墳群を形成しており,現在までに27基が確認されています。その多くは円墳です。福岡県八女市大字山内1281番地

童男山古墳1号糞童男山古墳1号糞 古墳群の中心にあるのが1号墳で,直径約48m,高さ約6.7mの円墳です。複室の横穴式石室で,玄室に凝灰岩の巨大な石屋形があります。石棚・棺床・石棺も多いのが特徴です。

童男山古墳童男山古墳八女市教育委員会の案内板より
「今から二千年以上も大昔,中国が秦という名の頃,始皇帝という人が家来の徐福に「いつまでも若さと元気を保つ不老長寿の薬を探し求めてこい」と命じました。命を受けた徐福は自国の秦の国内はおろか支那海を渡り,九州の今の有明海より私達の郷土,この川崎まで薬を求めてやってきました。しかし徐福は,寒い冬空のもと,つかれはててとうとう病にたおれ,地城の人々の手厚い看護もむなしく病死してしまいました。私達の祖先の人々は,この見も知らぬ他国の人を,やさしく,温かく,ていねいにはほうむってあげました。そして徐福のやすらかなねむりを念じ,煙が絶えないように火をたき続けてきたと伝えられています。これが「童男山ふすべ」の由来です。以来地域の人々は,このうるわしい伝統を受け継ぎ毎年一月二十日に童男山ふすべを行ってまいりました。現在では川崎小学校の児意に受け継がれ,祖先の人々の国境を越えた温かい人人間愛を象徴する大事な行事として続けられています。 平成元年二月」

徐福と童男童女の像徐福と童男童女の像徐福の墓とする伝承地はここ八女市以外にも和歌山県新宮市,三重県熊野市や山梨県富士吉田市など日本各地にあります。ここ八女市の場合,古墳の名前や数から,徐福ではなく同行してきた童男童女の墓ではないかと推測しています。

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