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山梨県の徐福伝説

 太平洋を海岸線に沿って北へ航海していた徐福たちは雲上に伸びる雄大な山を見ます。この山こそ大陸に伝わっていた「東海中の蓬莱山」であり,不老不死の仙薬があると考えられた富士山でした。一行は現在の富士市か沼津市に上陸し,富士山をめざしました。
 駿河湾から見る富士山は徐福らを驚かせたことでしょう。これまで見た蓬莱山とは比べものにならない美しさです。

富士山富士山

富士山と富士川富士山と富士川
 徐福らが探し求めていた蓬莱山を日本の富士山としたのは9世紀,中国の後周時代の斉州開元寺の僧,釋義楚で,その著書『義楚六帖』の第二十一巻に書いています。「秦の時,徐福五〇〇の童男,五〇〇の童女を率いてこの国(日本)にとどまる。・・・東北千余里に山ありて富士と名付け,また,蓬莱と名付く。・・・徐福ここにとどまりて蓬莱といえり。今に至るも子孫皆秦氏という。」(『太古のロマン徐福伝説』佐賀市 よりの一部引用)

大瀬崎大瀬崎
 伊豆半島の西海岸側の根元にある大瀬崎(おせざき)は駿河湾に突きだした岬です。大瀬崎にある大瀬神社は照葉樹林に囲まれており,見事なビャクシン樹林も見られます。ここには樹齢1000年以上のビャクシンがあります。大瀬崎のビャクシンが徐福とどのように関わるかは全く不明です。しかし,九州佐賀県佐賀市諸富町の新北神社の神木でもあるビャクシンという木はもともと大陸の暖かいところで育つ樹木で,この種を日本に持ってきた徐福がまいたと伝わっています。また,徐福が最後に上陸した場所は大瀬崎の対岸の富士市か沼津市のどこかの海岸であろうと考えられます。このことから,大瀬崎のビャクシンも徐福と何らかの関係があると推測しています。
大瀬崎(静岡県沼津市江梨大瀬崎)
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山中湖山中湖山中湖に面した長池村は,以前は長命村と呼ばれており,蓬莱山に不老不死の仙薬を求めた徐福の子孫が住みついたとされる村です。 山梨県山中湖 地図

河口湖河口湖 河口湖にも徐福に関する言い伝えが残っています。
 不老不死の仙薬を探し求めた徐福でしたが結局見つけることができませんでした。このまま国へ帰ることができず,徐福はここに永住することを決意しました。連れてきた童子300~500人を奴僕として河口湖の北岸の里で農地開拓をしました。この地の娘を妻として帰化し(注),村人には養蚕・機織り・農業技術などを教えましたが,やがてここで亡くなりました。 亡くなって後も鶴になって村人を護ったので,ここの地名を都留郡(つるごおり)と呼ぶようになりました。

(注)この部分の問い合わせをいただきました。河口湖町誌に書かれている内容ですが,原文の確認をしていません。そのため,どのような女性が妻となったかは不明です。村の娘,同行者の娘のどちらかであろうと推測します。山梨県南都留郡河口湖町 
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河口湖浅間神社河口湖浅間神社 河口湖浅間神社(河口湖町河口) 河口湖浅間神社の由緒書には「富士山の神,浅間明神を此の地に奉斎,・・・・伴直真貞(とものあたいまさだ)公を祝(はふり)に同郡の人伴秋吉公を祢宜(ねぎ)に任じ,富士山噴火の鎮祭を行う。これ当神社の御創祀」とあります。

波多志神社波多志神社 浅間神社本殿に向かう表参道両脇には杉の大木が立ち,境内地にも天然記念物の七本杉(直径2m以上,高さ40m以上)があります。
 この参道の中央に波多志神社と呼ばれる小さな祠が建っています。浅間神社の宮司さんに聞くと,この神社の創祀者である伴直真貞公を祀ってあると言います。この人物は徐福の子孫ではないかと考えられるのです。
 また,ここ河口湖周辺地域は昔から機織り・裁縫が盛んであったのです。徐福あるいは同行していた技術者たちが伝え広めたと考えます。
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富士吉田市富士吉田市山梨県富士吉田市 富士吉田市には真偽は定かではないのですが「富士古文献(宮下古文書)」が残っており,徐福の行動が詳しく記されています。

宮下古文書については前田豊著「消された古代東ヤマト」(彩流社)を参考にしました。 
この本の中で筆者は徐福の行動を次のように書いています。概略を紹介します。(詳細は http://homepage2.nifty.com/kodaishinto/page006.html 参照のこと)
・東海の蓬莱山を目指して出航した徐福船団は水平線上に蓬莱山らしき山を見つけたが見失ってしまった。
・大きな山の近くの海岸に上陸したが船から見た蓬莱山ではなく,紀伊和歌山の大山であった。
・熊野那智山を眺めていた徐福の前に白衣の老翁が現れ,蓬莱山はここより東方にあると告げた。
・徐福一行は3年かかって富士山を発見した。
・徐福一行は「住留家の宇記島原に上陸し,松岡宿から水久保宿を越え,富士山麓の阿祖谷家基津に到着した。この一帯は高天原と呼ばれて,日本最初の首都の跡だ
った。(「」内は本文引用,以下同じ)
・徐福はここで開墾し,農業,製紙,機織,養蚕などを行わせた。
・徐福は「書巻約3千巻,印度留学から持ち帰った薬師如来像を小室高座山に建設した宝蔵に収め,阿祖大神宮の宝物にした。」
・徐福は孝元天皇7年(前208)の2月8日に富士山で亡くなった。
・和歌山県の「新宮」というのは富士山の「本宮」に対して付けられた名前。

徐福像徐福像明見湖近くの徐福像
(富士吉田市小明見) 富士吉田市小明見にある徐福像は徐福がここ富士吉田市に最終的に到達し,機織り,養蚕などの技術を伝えたことを記念して建てられています。
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徐福雨乞地蔵祠徐福雨乞地蔵祠
 「甲斐絹(かいき)」は山梨の織物として知られています。江戸時代に誕生したものと言われますが,甲斐国から「甲斐絹」と命名されたのは明治時代です。しかし,富士吉田市を含む富士山の北麓は千年以上前から織物が盛んでした。この技術を伝えたのが,中国からやってきた徐福であったと伝えられています。

徐福雨乞地蔵祠徐福雨乞地蔵祠
 徐福像の隣に建つのが徐福雨乞地蔵祠です。この祠のある小明見地区には龍神伝説が残っています。ここより西へ少し歩いたところに明見湖があり,かつては湖であったのが,富士山の噴火によって埋まってしまい,小さな池のようになったと言われています。ここに龍神が住むと言い伝えられており,村人たちが五穀豊穣を願って雨乞いをした所でもあるのです。湖畔に明見龍神社もあります。
(富士吉田市小明見) 

太神社太神社
 上の祠から北東へ150mほどの所に小山があります。民家の横を通り,細い道を行くと太神社の鳥居が見えます。そこから石段を上ると徐福祠の前に至ります。
太神社(富士吉田市小明見) 地図

徐福祠徐福祠
 ともに徐福祠。右は徐福大明神と書かれていました。
 この祠が徐福の墓ではないかと言われていますが定かではありません。
徐福祠 (富士吉田市小明見)

徐福碑徐福碑
 富士吉田市の北口本宮富士浅間神社東側にある高さ約1.6mの徐福碑です。中国仏教協会長の趙樸初氏が徐福故事をしのんだ詩が石に刻まれています。この横に高さ約2.3mの日中友好の碑が建てられています。
碑文には次のように書かれています。
「徐福碑由緒
紀元前二一〇年秦始皇帝の命により徐福は三千人の童男童女五穀および百工を携えて東海の三神山に不老長生の薬を求めて船出して再び中国に戻ることはなかった。<富士山北口の記>には『徐福は熊野三山を巡回した後,尾張の熱田に至り,それより諸州を廻り遂に富士山麓を安住の地と定める』とある
ここに中国佛教協会会長趙樸初先生が徐福故事を偲んだ詩を石に刻し徐福碑とする」徐福碑(富士吉田市上吉田)
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聖徳山福源寺聖徳山福源寺
 聖徳山福源寺は1724年の創建で聖徳太子の木造や自画像が納められた六角堂も建っています。聖徳山福源寺(山梨県富士吉田市下吉田)
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聖徳山福源寺聖徳山福源寺
 聖徳太子が諸国の様子を見に旅に出たとき,黒駒に導かれてここにたどり着きました。その時,3枚の自画像を描きました。ここに納められているのがそのうちの1枚です。

鶴塚鶴塚
 徐福は不老不死の仙薬を求めて富士山に入りましたが,その途中で亡くなってしまいます。そして,3羽の鶴に化身して空に舞い上がったのですが,うち1羽が死んで福源寺に落ちてしまいました。この鶴を葬ったのが鶴塚です。鶴塚(福源寺内) 

徐福の墓徐福の墓
 富士山北麓地域の人たちはこの鶴塚を徐福の墓としています。

富士吉田終焉の地 富士吉田
 こうして徐福はおよそ70歳でここ富士山麓で果てました。徐福やその子孫たちは多くの知識・技術を伝え,日本の文化や国の発展に大いに貢献しました。徐福と関わりの深い町は今でも中国との交流があり,姉妹都市提携を結んでいるところもあります。徐福は2000年以上経ってもなお語り継がれ,国を越えて人々の心の架け橋となっているのです。

赤富士赤富士
 このように日本はこの国が出来る以前から中国と深いつながりを持っています。日本が今このように大きな国となった原点には,衣食住全ての生活面での,あるいは漢字を始めとする学問・文化面での,そして仏教に代表される精神面での,日中の長く深い交流があります。朝鮮半島の国々を含め,アジアの国々が互いを大切にする気持ちを忘れずに,より強い交流が出来るよう願っています。

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