佐賀県の徐福伝説
日本の稲作は今から約2700年前の縄文時代後期,九州北部で最初に始まりました。米の原産地は中国の東南部です。中国大陸から日本にやってきた人々によって広められたのです。
これより約500年後,徐福は不老不死の薬草を探すために日本にやってきました。司馬遷(BC145~86)が書いた『史記』によれば,秦の始皇帝に「東方海中の三神山にある不老不死の薬を求めてきましょう」と進言して出かけたのがBC210年のことです。2回目の航海で九州北西部に上陸し,この地で王となりました。
佐賀県には金立山,浮盃,竜王崎など徐福に関係のある伝承地が数多くあります。また,吉野ヶ里遺跡からは当時の中国の人たちの特徴を示す人骨が発見されているとのことです。これらから,徐福は伝説上の人物ではなく,九州佐賀県に確かに足跡を残した実在の人物と言えるのではないでしょうか。
『史記』では徐福は斉の国(始皇帝によって滅ぼされた国で現在の山東省あたりにあつた)の方士(ほうしと読む。呪術師であり,医薬,天文,他の学問にも精通していた。)という身分です。しかし,佐賀県の金立山に伝わる話では,徐福は大明国秦始皇帝の第3皇子で,宋無忌という老人の提案に従って不老不死の薬を求めて東方海中の蓬莱の国に行くことになったのです。
BC221年,秦の始皇帝が全国を統一しました。領内を巡行し,東国へやってきたのがBC219年のことで,この時徐福と出会います。斉の国の徐市(徐福)は「東方海中に蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛洲(えいしゅう)という三神山があります。そこには仙人が住んでいます。私はそこへ行って不老不死の薬を求めて来ましょう」と申し出ました。
BC210年,徐福らは出航します。しかし,数年経っても仙薬を手に入れることはできませんでした。このまま帰れば皇帝は怒り,殺されてしまうかもしれません。そこで,徐福は偽りの報告をします。「出航したものの大サメに苦しめられ,行き着くことができませんでした。」
また,次のようにも言いました。「私は海上で海神と出会いました。海神に不老不死の仙薬を探していると話すと,『主君の礼が足らないから手に入れることはできない』と言われました。そのあと私は海神とともに蓬莱山にある宮殿に行きました。そこで,海神に仙薬を手に入れるにはどうしたらいいかと尋ねると,海神は『少年少女と道具や技術を献上しなさい』と言われました。」
これを聞いた皇帝は大変喜び,童男童女3000人,米・麦・粟・キビ・豆などの五穀の種,農具,武具や造船,航海,養蚕などの技術者をつけて,再度航海に出しました。
最初の上陸地は伊万里
徐福が日本に最初に着いた所が伊万里の波多津で,上陸して黒髪山→武雄の蓬莱山→杵島三神山→白鷺温泉→稲佐山→竜王崎ー(船)→寺井津→金立山 と陸路・海路を仙薬を求めて探し回りました。
佐賀県に伝わる『金立山物語』によると,BC219年,徐福は若い男女500人らとともに大船20隻で出航しました。大陸をあとにして数日の航海の後,一行がたどり着いたところが九州北西部の伊万里です。徐福たちは伊万里湾を見下ろす不老山に仙薬を求めました。
不老山総合公園 長崎県松浦市志佐町里免 Map
不老山(288m)は長崎県松浦市志佐町にあり、徐福が不老不死の薬を求めて登った山です。その伝説からこの山を不老山と呼んでいます。春にはつつじが咲き,海を見渡せるきれいな公園です。
伊万里は陶磁器の町として世界に知られた所です。焼き物の模様は中国,特に唐時代の影響を強く受けています。つまり,大陸と伊万里とは海の道でつながっていたのです。古くから中国文化がこの地に入ってきて日本に広まっていったと考える拠点の一つだったと考えられます。伊万里市には「波多津」という地名があります。波多=秦,津=港で,古代に中国からやってきてこの地に住み着いた人々がいたことを示しています。そのスタート時点に遡ると,徐福の時代に至るのではないでしょうか。
仙薬を探して黒髪山へ
黒髪山 佐賀県西松浦郡有田町 地図
薬草を見つけることができなかった一行は南下し黒髪山に登りました。標高516mの黒髪山は山岳信仰の霊場とされてきました。徐福一行はこの山に入って黒髪山頂上にある天童の岩周辺で仙薬を探し求めました。しかし,ここでも見つけることはできませんでした。
黒髪山の来訪については驚くべき話があります。昭和41年1月に雑木林から「阿房宮朝硯」と書かれた硯が発見されたのです。徐福が確かにこの地にいたことを示す証拠ではないかとも考えられます。因みに「阿房宮」は秦の始皇帝が建てた宮殿で,「アホ」という言葉の語源ともなっています。(佐賀市発行『太古のロマン 徐福伝説』より)
犬走天満宮 佐賀県武雄市山内町 地図
黒髪山の南東にある山内町に犬走という地区があり天満宮があります。この鳥居の石段を登った神殿の横に祠が建ち,中に徐福が祀られています。
除副社
佐賀県武雄市山内町 地図
社にある徐福石像の土台の石には「除副社」と彫られています。(「徐福」ではなく「除副」と彫られています。)
「阿房宮」の文字が入った硯が発見されたのが山内町です。後の調査で,発見された硯は始皇帝の時代の物ではなくて清時代のものとわかりました。
蓬莱山に登る
武雄温泉 佐賀県武雄市武雄町大字武雄 地図
楼門がシンボルとなっている武雄温泉にも徐福伝説があります。温泉を見下ろす蓬莱山は徐福一行が仙薬を探し求めた山としても知られています。
一行はこの付近から湧き出ていた温泉に入って疲れをいやしたと言われています。
武雄温泉街で目に入る朱塗りの楼門は佐賀県指定の重要文化財です。昔この辺りは人が簡単には入ってこられないほどの荒々しい岩山であったようです。その岩山から温泉がわき出ていると肥前国風土記に書かれています。
竜王崎から再び海へ
海童神社 佐賀県白石町深浦 地図
武雄温泉を後にした一行は東に向きを変えて進みました。
そしてたどり着いたのが竜王崎です。現在海童神社がある辺りからがかつては海岸で,徐福一行はここ竜王崎から有明海へ船出したのです。
海童神社にある石碑の裏面には,この地に徐福が来たことなどが書かれています。
このように徐福たちが九州北西部の伊万里から陸路を歩いて竜王崎に着いたとする説とは別に,海路で有明海に入った徐福船団が最初に着いたのが竜王崎だったとする説もあります。
金立山発見
有明海北部に注ぐ筑後川は阿蘇山を水源地とし,全長143㎞の九州で最も長い一級河川です。江戸時代以前の記録には千歳川・千年川(ちとせがわ)とも書かれていましたが,筑後川と呼ぶことが定められました。昔から流域に多大な被害を及ぼす暴れ川でもありました。有明海は南部で日本海とつながり,その先は東シナ海となって大陸にもつながっています。中国から海をこえ,穏やかな流れの有明海に入った徐福一行ははるか前方に大きな山を見つけます。この山が金立山で,徐福が探し求めた仙薬がある山でした。
上陸地決定
浮盃(ぶばい) 佐賀県佐賀市諸富町寺井津 地図
有明海を北上し,筑後川の河口までやってきた徐福一行は上陸地点を決めるために大きな盃を海に浮かべて占いました。そして,盃が流れ着いたのが佐賀県の諸富町大字寺井津字搦(からみ)とされています。
『わが郷土北川副町の歴史』によると、徐福が有明海に入り船を着けたのが諸富町搦(からみ:現在は東搦、西搦)としています。そして、ここで酒宴を開いていました。歌を歌い盃を浮かべて酒を飲んでいると、盃が浮かんだところから白い泡が出て渦を巻き、島が現れました。そのため、この島を「浮盃(ぶばい)」と名付けました。島はやがて陸続きとなりました。
現在も諸富町に「浮盃(ぶばい)」という地名が残っています。一行はこの地に上陸し,金立山を目指すことにしました。
再上陸の地は諸富町寺井津
中国から船で渡来した徐福が最初に着いたのは九州西部の有明海の沿岸でした。
江戸時代の国学者に伊藤常足(いとうつねたり 1774年ー1858年)がいます。常足は九州全域の地誌「太宰管内志」全82巻を完成させました。その中に,徐福のことを書いています。それによると,徐福は有明海を北上し沖の島から竜王崎に到着したことになっています。しかし,当時の竜王崎は先に進むことが困難な地であったため,再び有明海に船出し,諸富町寺井津に再上陸します。そして,そこから仙薬を求めて北の金立山に向かいました。
佐賀県佐賀市諸富町は筑後川の河口に位置する町です。この地には徐福と深い関係のある地名や遺跡があります。
徐福上陸地
徐福上陸地 金立神社 佐賀県佐賀市諸富町大字寺井津15 地図
金立大権現とは徐福のことです。徐福が上陸した場所には金立神社がありましたが,現在は移転されて,石碑が立っています。
『わが郷土北川副町の歴史』によると、この神社は徐福が建てたとも読み取れます。
境内にある石碑には「徐福上陸地」と彫られています。境内には日中友好の石碑など,いくつか立っています。
境内にある堂の中には徐福像が祀られています。通常は戸が閉められていて見ることはできません。この地を訪問したのは5回になりますが,偶然にも見ることができました。地元の方にお願いして写真を撮らせていただきました。
行く手を阻む葦原
片葉の葦
一行が上陸した場所は一面の葦(アシ)原で,それを手でかき分けながら進みました。そのため片方の葉だけが落ちてしまったそうです。現在もこの一帯には片方にしか葉をつけないアシが生えています。この時落ちた葉は,「エツ」という魚になったとも言われています。
エツはカタクチイワシの一種で,「斉魚」と書きます。成魚で30~40㎝になり,ペーパーナイフのような細長い形をした魚です。有明海に流れる川にしか生息しておらず,珍しい魚です。昔,筑後川を渡ろうとした弘法大師が貧しい漁師を助けた話として,葦の葉がエツになったという話も伝わっています。(鉄橋展望公園にある筑後川の生物の説明より)
民家の中の徐福遺跡
御手洗井戸 佐賀県佐賀市諸富町大字寺井津 地図
一行はきれいな水を得るために井戸を掘りました。上陸して汚れた手をその水で洗ったので「御手洗井戸」とよびました。この井戸は民家の庭に今でも残っています。寺井の地名は「手洗い」が訛ったものと言われています。
この井戸は8世紀になって再び掘られ,この地に来ていた高僧行基によって「照江」と名付けられました。その後,火災・疫病などが続き,「寺井」と改称されました。その後,僧侶の手によってこの井戸に蓋(ふた)がされてしまいました。いつしか忘れ去られた井戸でしたが,言い伝えに基づいて大正時代に調査が行われ,井の字型の角丸太と5個の石が発見され,徐福の掘った井戸に間違いないとされました。地元の方にお願いして撮影させていただきました。
日本にあるはずのない樹木
新北(にきた)神社 佐賀県佐賀郡諸富町 地図
しばらく滞在していた徐福一行でしたが,漁師が漁網に渋柿の汁を塗るため,その臭いにがまんができず,この地を去ることにしました。去るとき,何か記念に残るものはと考え,中国から持ってきた「ビャクシン」の種を植えました。白檀に似ているというビャクシンは天に向かってまっすぐに伸び,樹齢2200年以上経った今も元気な葉をつけています。
新北(にきた)神社のご神木でもあるビャクシンは国内ではここにしかないと言われ,徐福伝説が真実であることを証明しています。(実は本州伊豆半島北部の大瀬崎(おせざき)一帯に百数十本のビャクシン樹林があります。大瀬崎は伊豆半島の西海岸側の根元にあり,徐福一行が紀伊半島を旅立ち,太平洋岸を経由しながら最後に上陸したとされる静岡県富士市あるいは沼津市と向き合っています。)
金立山に向かう
佐賀市金立町千布交差点より北を見ると金立山が見えます。この山に向かって歩き始めた一行でしたが,この地は広大な干潟地であり,葦原であり,道はなく、とにかく歩きにくい所でした。そこで,持ってきた布を地面に敷いてその上を歩くことにしました。ちょうど千反の布を使い切ったので,ここを「千布(ちぶ)」と呼ぶことにしました。使った布は,千駄ヶ原又は千布塚と言うところで処分しました。
道案内人源蔵
千布に住む源蔵という者が,金立山への道を知っていると言いました。どこにあるかわからない不老不死の薬を探すためには,少しでも道を知った者がいれば心強いため,徐福は源蔵の案内で山に入ることにしました。
源蔵松 佐賀県佐賀市金立町 地図
百姓源蔵屋敷は田の一角にありました。現在その場所を特定することはできませんが,徐福を案内した記念に庭に植えたという松(源蔵松)が残っている辺りとも言われています。
源蔵について別説があり、源蔵は百姓ではなくて大きな屋敷に住んでおり、酒屋を営んでいました。
徐福と阿辰
阿辰観音 佐賀県佐賀市金立町 地図
源蔵には阿辰(おたつ)という18歳になる美しい娘がいました。徐福が金立町に滞在中,阿辰が身の回りの世話をしていましたが,やがて徐福を愛するようになりました。徐福は金立山からもどったら,「5年後にまた帰ってくるから」と言い残して村を去ったのですが,阿辰には「50年後に帰る」と誤って伝わってしまいました。これを聞いた阿辰は悲しみのあまり入水してしまうのです。村人はそんな阿辰を偲んで像をつくり,阿辰観音として祀りました。
徐福は源蔵の案内でいよいよ金立山に入ることになりました。(金立山麓に住んでいた八百平の案内という説もあります)徐福らは金立山の木々をかき分けて不老不死の薬を探しましたがなかなか発見することはできませんでした。
金立神社下社 佐賀県佐賀市金立町 地図
金立神社下社の前にある金立道を歩いて徐福一行は金立山に向かいました。
徐福と弁財天
昔,金立山には雲上寺というお寺があり,その庭園に蓬莱島と弁財天堂がありました。徐福が金立山で不老不死の薬を探し求めていたところ,天から五色の雲に乗った弁財天が降りてきて,徐福に不老不死の薬を授けたと言われています。この場所が蓬莱島といわれ,島の上に堂を建てて弁財天を祀っていたそうです。江戸の元禄時代,住職が石像を祀りましたが,やがて廃寺となり,現在は金立神社下宮に祀られています。
金立神社中社 佐賀県佐賀市金立町 地図
教育キャンプ場入り口近くに金立神社中社があります。
金立山で源蔵と徐福は不老不死の薬を探しましたが発見することはできませんでした。
仙人との出会い
山頂付近で徐福は釜で何か湯がいている白髪で童顔の仙人に出会いました。この仙人に不老不死の薬を探し求めて歩き回っていることを伝え,薬草はどこにあるかと尋ねました。すると,「釜の中を見ろ」と言うのです。これこそが薬草で,「私は1000年も前から飲んでいるから丈夫だ。薬草は谷間の大木の根に生えている」と言うと,釜を残して徐福の目の前から湯気とともに一瞬に消えてしまいました。こうして徐福はついに仙薬を手に入れることができました。
仙薬はフロフキ
徐福の里薬用植物園 佐賀県佐賀市金立町金立1197 地図
仙人が釜で湯がいていたのはフロフキという薬草でした。フロフキはカンアオイという植物で,金立山の山奥に今でも自生しています。煎じて飲めば腹痛や頭痛に効果があると言われています。金立山の麓にある徐福の里薬用植物園にはこのカンアオイが栽培されています。
フロフキは黒蕗(くろふき)とも言われているようです。
徐福を祀る金立神社
金立神社上社 佐賀県佐賀市金立町金立 地図
金立山山頂には金立神社上社があります。祭神は保食神(うけもちのかみ),岡象売女命(みずはめのみこと)と徐福の三神です。以前は徐福だけを祭神としていたといいます。雨乞いには,金立神社の御輿を有明海まで担ぎ出すとよいと言われ,地元では徐福が雨を降らせる神として信仰されています。(徐福と雨乞いの話は富士吉田市にも伝わっています)
金立神社上社の拝殿裏には「湧出御宝石(わきでのおたからいし)」が立ち,この巨石の頂部には水がたまっているといいます。神仙思想に基づけば,この巨石は陽石であり,上宮から下ったところには陰石と思われる巨石が確かにあります。その石の割れ目からは水が出ています。
金立神社奥の院
金立神社上社をさらに上に登ると金立神社奥の院があります。
徐福発見の滝
御手洗観音
御手洗(おちょうず)観音は古湯温泉に向かう県道の脇にあります。徐福が不老不死の薬を探し歩いていたところ,一つの滝を発見しました。徐福はこの清水で手を洗い,涼んだと言われています。後に,この滝を御手洗(おちょうず)の滝と呼び,御手洗観音を祀りました。
徐福発見の温泉
古湯温泉
金立山の西方,脊振山と天山の山峡にあり,美人湯としても有名な古湯温泉は,2200年前に徐福が発見したと伝えられています。
彦山大権現と徐福像 佐賀県佐賀市富士町 地図
徐福は金立山で「北山の翁」と呼ばれて暮らしていました。あるとき,四方の山々を眺めていると,湯の神が現われ,徐福に「この山中の西北のあたりに黄金の霊が湯となって湧き出るところがある。そこに行って穴を掘り,これを広めて多くの人を救われよ。」と告げると雨雲をかきわけて消え去りました。
木像の徐福像
湯の神のお告げを聞いた徐福は,春草の山道を踏み越えて谷川のほとりにたどり着きました。そこで緑色したコケでおおわれた岩の間から湯がわき出ているのを発見します。その後徐福はここに庵を建て,ここの湯守となったと言われているのです。彦山大権現には木造の徐福が祀られています。地図
九州は稲作始まりの地
吉野ヶ里遺跡 佐賀県神埼郡吉野ヶ里町・神埼市 地図
吉野ヶ里遺跡から発見された絹や人骨などが中国と深く関わっていることもわかってきました。これらは徐福と吉野ヶ里遺跡とを結びつける貴重な史料ともなっています。。
徐福に同行してやってきた人たちあるいはその子孫達が,吉野ヶ里に住み着き,一大王国を築いていったとも考えられないでしょうか。
徐福は最初に九州に住みつき,数年後,蓬莱山をめざしてさらに東方に船出しました。そして,九州南部の各伝説地に立ち寄りながら,四国から紀伊半島へと黒潮や季節風を利用して向かっていったと考えています。
しかし,この船出に同行せず,九州西北部の地に定住した者たちもいたのです。徐福の子孫たちがここで「クニ」をつくっていったのかもしれません。それが吉野ヶ里遺跡と考えてもよいかもしれないのです。
徐福情報発信地
徐福長寿館 佐賀県佐賀市金立町1197−166 地図
佐賀市の徐福伝説を巡るにあたり,徐福長寿館の館員の方に大変お世話になりました。徐福長寿館は金立公園内にあり,長崎自動車道金立サービスエリアからも入ることができます。徐福についての資料やわかりやすいビデオも上映され,かなり内容が充実した施設です。
中国製徐福像
徐福長寿館には徐福像が展示されています。館員に許可をいただき撮影・掲載させていただきました。中国で作られた像だそうです。
佐賀県佐賀市本庄の徐福
王子神社 瑞応寺 佐賀県佐賀市本庄町 地図
この寺の境内には王子神社(王子権現・若王子権現)があります。かつて本庄 地区は海の中の島でした。もとは古江湖川の中の島にありましたが、現在地に遷座しました。このあたりは埋め立てられており、もとの場所がどこであったかを見つけることはできません。『本荘の歴史と文化』によると、この王子神社の縁起『若王子権現縁起』にはここに徐福が上陸したのことが書かれていることを紹介しています。
「・・・筑後川嘉瀬川ノ河口付近ニ上陸、現在浮盃本庄間位侍数百人ト供ニ金立山ニ登ル。若王子権現社モ亦上陸乘船居住等垂迹地ニシテ、碇島左右ニ在り、・・・」