三重県の徐福伝説
三重県熊野市波田須(はたす)は,もとは「秦住」と書かれており徐福の上陸地点であり,徐福が住み着いた場所でもあります。日本での徐福やその子孫は「徐」の姓を使わず,故国の「秦」から波田,波多,羽田,畑など「ハタ」と読む漢字をあてて名乗っていたと伝えられています。
熊野古道波田須と徐福宮
熊野本宮大社 紀伊半島南部には熊野本宮大社,熊野速玉大社,熊野那智大社の熊野三山があります。 |
那智大社 那智大社(熊野牟須美神(くまのむすみのかみ) 熊野夫須美大神:伊奘冉尊)(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町) |
那智大社 神武天皇が熊野灘から那智の海岸に上陸したとき光り輝く山の方へ入っていくと大滝があったとされます。大滝は以前よりこの地の住民の信仰の対象となっていました。神武天皇は八咫烏(やたがらす)の導きによって大和へ戻ったと社伝にあります。この大滝を神とし,「大国主命(おおくにぬしのみこと)」を祀り,また,親神さまの「夫須美神」(伊弉冉尊:いざなみのみこと)を祀りました。 |
速玉大社 速玉大社(熊野速玉大神(いざなぎのみこと) 熊野夫須美 |
速玉大社 平安時代から鎌倉時代,皇族や貴族たちは山岳信仰に救いを求め,「熊野御幸」をおこなうようになりました。やがて熊野信仰は武士や庶民へも広がっていきます。 |
熊野古道 紀伊半島南部には熊野古道と呼ばれる熊野信仰の道が整備されて残っています。熊野古道は,伊勢・吉野・京都などから熊野三山に参るための道で,紀伊半島西回りの「紀伊路」(平安時代から鎌倉時代が中心)と東回りの「伊勢路」(江戸時代以降)に代表されるコースが何本もあります。熊野古道 三重県紀伊長島町 |
「蟻の熊野詣」 紀伊半島南部は山が海岸線に迫り険しい山道が続きます。いくつもの峠越えが続く熊野詣はまさに苦行で,道が崩れたり土砂が流出しないようにと石が敷かれた狭い山道を一列になって歩きました。それがアリの行列にたとえられ,「蟻の熊野詣」などと呼ばれていました。 |
波田須 三重県熊野市波田須(はたす)は,もとは「秦住」と書かれており徐福の上陸地点であり,徐福が住み着いた場所でもあります。日本での徐福やその子孫は「徐」の姓を使わず,故国の「秦」から波田,波多,羽田,畑など「ハタ」と読む漢字をあてて名乗っていたようです。 |
徐福宮 徐福が伝えたものの中に製紙があります。「徐福紙」とよばれている紙は,日本古来から伝わるものと異なり,唐様の紙だと言われています。この紙の製法を村人に伝え,現在でも「那智紙」「音無紙」として知られているそうです。 |
徐福宮 国道から海岸の方を見ると,村の中に丸みを帯びた丘が確認できます。これが矢賀の蓬莱山とよばれた丸山です。丸山に徐福宮があります。徐福宮の祠の背部に徐福の墓の石碑が立っています。徐福はここで亡くなったのでしょうか。 |
徐福之墓 石碑には確かに「徐福之墓」と記されています。しかし,山梨県にも徐福に関する伝承があることから,徐福らは再び船出し,黒潮に乗って北上したと推測します。 |
鳥羽展望台より伊勢湾 志摩半島先端を黒潮に乗って船が進みます。大王崎を過ぎ,伊勢沖を航行する徐福らの乗った船は蓬莱の地が持つ力に導かれ,伊良湖水道から伊勢湾の奥へと入っていきました。やがて,目の前に愛知県の地名の元になった「年魚市潟(あゆちがた)」(現在の愛知県名古屋市熱田区)にたどり着きます。 |