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徐福伝説

 今から2200年前,日本が縄文から弥生時代へと変わろうとしていたとき,秦の時代の中国に徐福(じょふく)という人がいました。中国では長い間,伝説の人でした。しかし,1982年,江蘇省において徐福が住んでいたと伝わる徐阜村(徐福村)が存在することがわかり,その村には現在も徐福の子孫が住んでいると確認されました。この村では代々,先祖の徐福について語り継がれてきたそうです。徐阜村に大切に保存されていた系図には徐福が不老不死の薬を求めて東方に行ったきり帰ってこなかったことが書かれていました。
 徐福は始皇帝に,はるか東の海に蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛洲(えいしゅう)という三神山があって仙人が住んでいるので不老不死の薬を求めに行きたいと申し出ました。この話は司馬遷の『史記』がもとになっています。願いが叶った徐福は莫大な資金を費やして一度旅立ちますが,得るものがなくて帰国しました。何も得られなかったと始皇帝に報告は出来ず,この時は「鯨に阻まれてたどり着けませんでした。」と報告しました。そこで始皇帝は,今度は大勢の技術者や若者を伴って再度船出することを許可しました。
 徐福は若い男女ら3000人を伴って大船団で再び旅立ちました。何日もの航海の末,船はばらばらになり,東方の海上にあるどこかの島に到達しました。徐福の乗った船がどこにたどり着いたかは不明ですが,中国の歴史書に,「平原広沢の王となって中国には戻らなかった。」書かれています。この「平原広沢」は日本であるといわれています。それは,中国を船で出た徐福が日本にたどり着いて永住し,その子孫は「秦」(はた)と称したとする「徐福伝説」が日本に存在するからです。
 徐福は船出するときから不老不死の薬を持って帰国する気などなかったかもしれません。万里の長城の建設で多くの民を苦しめる始皇帝の政治に不満をいだき,東方の島,新たな地への脱出を考えていたかもしれません。徐福らの大船団での旅立ちは一種の民族大移動だったと考えられるのです。中国には,「徐福は神武天皇となった。」とする説もあります。


 徐福は中国を出るとき,稲など五穀の種子と金銀・農耕機具・技術(五穀百工)も持って出たと言われています。一般的に稲作は弥生時代初期に大陸や朝鮮半島から日本に伝わったとされますが,実は徐福が伝えたのではないかとも思え,徐福が日本の国つくりに深く関わった人物にも見えてくるのです。日本で徐福の存在を証明する物は何も存在しませんが,各地に徐福伝説が存在するのです。そこで,佐賀県,鹿児島県,宮崎県,三重県熊野市,和歌山県新宮市,山梨県富士吉田市,京都府与謝郡,愛知県,そして,秋田県,青森県などを訪ねて,その足跡を探ってみました。


 各地に残る徐福伝説の真実はわかりません。そのため,考証することはせず,ここでは,各地の伝承をそのまま紹介します。


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2010/3/1
「古代史の扉」から移転し,リニューアルして公開しました。